Le Temps qui reste(2005)フランソワ・オゾン
私は、フランソワ・オゾン監督の映画に対して、好きなような苦手なような、複雑な印象を持っているんですけど、今回は、その世界にすーっと入ることができ、主人公ロマンの傍らに、自分がよりそって居るような(自分、背後霊的な?)落ち着きを感じられて、不思議だったのでございます。
これは、命の三部作の二作目に当たり、「自分の死」を描いているらしい。
オゾン監督自身が、こういう死を思い描いているのかなぁ?
あらすじ
ロマン(メルヴィル・プポー)は売れっ子の写真家で、まだ31歳という若さにもかかわらず、余命3ヶ月を宣告されます。
ハリウッド映画のような、激しい動揺を表すシーンはないんだけど、死の宣告を受けたロマンの見る景色は確実に一変します。
そこには、いつもと変らない光景。
昨日の続きに身を置きながらも、宣告を受けたその瞬間から、未来に向かって生きるのではなく、命の終わりに向かって、生きることになるのです。
つまり、死の時に至る過程を、ロマンがどのように過ごしたか、という物語。
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感想
検査の結果を聞くとき、「エイズ?」と聞くのがシュールでした。
結果はただのガン。でも余命3ヵ月。
まず宣告後、ロマンはコンデジのシャッターを切ります。
商業写真家だったロマンが、「自分の感情の動き」によって、小さなカメラの中に、「今」を記録するんです。
「死に向かって生きる」ということのはじまり。
ささやかに描かれたシーンだけど、思いのほか胸に食い込みます。
さらにロマンは実家に足を運び、家族に愛を伝え、病気をカミングアウトするはずが、結局辛らつな言葉で、姉を傷つけてケンカ別れしてしまったり、エゴイスティックな性行為のあと「愛してない」と言って、恋人と別れたりします。
ちなみに、その時恋人の頭からひとすじの血が流れ、死んだのかな?と思ったら、後々再会したりするので、あれは一体なんだったんだろう・・・。
ともあれ結局、自分が近々死に行く身である、ということを打ち明けるのは、父でも母でも姉にでもなく、恋人でもなく、ひとり暮らしの祖母にだけです。
なぜ祖母にだけ?
「ぼくたちは似てるから。おばあちゃんも僕ももうすぐ死ぬ。」
もう、この言葉を受ける祖母を演じるジャンヌ・モローが、最高に素晴らしくて、アタイ卒倒するかと思いました。
ハダカで眠るおばあちゃん、見ないから、と言って一緒に寝ちゃうロマン。
完全に孤独に死んでいくのか、と思われたロマンに、家族として肯定しあえ、ロマンの現実を共有できる人物がいたことで、見ているこっちは少しほっとさせられます。
そして、おばあちゃんと会ったあと、ロマンの行動が少し変化するのです。
てゆーか、ゲイであるロマンが、子供を残す選択をする流れは、ぶっきらぼうと言ってもいい強引な展開なのに、「まぁ、そういうこともありそう」的な、妙な説得力があり、とてつもなく繊細なファンタジーとして表現されていました。
それにしても、やっぱ人間というものは、どのような形であれ、生きた証を残さずにはいられないのかなぁ、とか思う。
ぶっちゃけ
まぁ、もしもアタイがロマンの立場で、あと3ヶ月しか生きられないってことになったら、まずはHDDをぶっこわし、ノートをシュレッダーにかけることから手をつけますよね!
過去のクッソ恥ずかしいあれとかこれとか、もしも誰かに見られたら、たとえ死後でもまた死ぬわ!
ミーハー的萌えポイント
この映画は、内容もさることながら、メルヴィル・プポーをはじめ、美形ゾロリ状態で、目の保養効果がパネェのですよ・・・。
特に、ロマンがハッテン場で会う青年とサシャ!!
なんと、サシャ役のクリスチャン・センゲワルド、この映画のほかに日本語データがない!!
IMDbにはデータがあるのに!
まさか、ブレイクしてないの?
鼻の形なんて世界遺産級なのに、これでブレイクしてないなんて、あ、あ、ありえなーーーーい!
まぁ、この映画からまだたった12年、今からでも遅くないので、今後に期待をかけまする。
「ぼくを葬る」データ
- 原題: Le Temps qui reste
- 英題: Time to Leave
- 2005年 フランス
監督
- フランソワ・オゾン
キャスト
- メルヴィル・プポー(ロマン・ブロシャン)
- ウゴ・スーザン・トラベルシ(幼少期のロマン)
- ジャンヌ・モロー(祖母ラウラ)
- ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(ジャニィ・シャロン)
- ダニエル・デュヴァル(ロマンの父)
- マリー・リヴィエール(ロマンの母)
- クリスチャン・センゲワルド(恋人サシャ)
- ルイーズ=アン・ヒッポー(姉ソフィ)
- アンリ・ド・ロルム(医師)
- ウォルター・パガノ(ブルーノ・シャロン)
- ヴィオレッタ・サンチェス